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四文字の改訂に

                                來田 仁成

  「オオクチバス小グループ会合とその前後」でこころが消耗し尽くしてしまった。「顛末」すべてが「釣りごころ」とは遥にかけ離れた世界のものだったのだから、当然といえば当然のことでもある。

「釣りは想像し推理することからはじまる」と若い人たちに向けていってきた。ところが年齢とともに、想像する力が妄想にかわり、そのために「釣りするためのパワー」が次第に磨耗してきたと感じてしまうことがしばしばだ。だから今度のような顛末には無力感のほうが先に立ってしまうのだ。それなのに性懲りも無く、少しばかりエネルギーが回復すればしたで、またもや立ち騒ぐ波の中に、さらに石を投げ込んでしまう羽目に立ち至った。家のものに叱られるまでもなく、われながら困った性分だと、いささかの後悔もないではない。

 去年の秋からの騒ぎを、いま、少し離れて眺めたとき、もちろん、まだ騒ぎは続いているのだけれど、それぞれの立場で、相手方の言動を邪推し、思い込みを事実であるかのように確信し、まだ起きてもいないことに怯えて疑心暗鬼、釣り人は釣り人なりに、学者は学者なりに、それぞれ相手方が敵に見え、身構えながら過ごさずにはいられない悲しい時期であった。

 でも、冷静に考えれば、オオクチバスを断固指定に入れるべきだ、とする側も、釣り人の末端まで理解を広げるべく時間を求める側も、いまの状態でのバスを含めた内水面の釣りが、このままでよいとは思っていなかったのではないだろうか。新しく秩序を組み換えることが、不可欠な時期にきていることは、誰の目にも明らかだったはずなのだ。

漁業法が成立してから五十年余り。はじめの精神は疾くに失われ、得手勝手なルール破りと、既得権の主張がまかり通り、なによりも全ての魚たちのための生息環境が大きく損なわれてきた。だれもが、その流れに竿を指し止めることが出来なかった。むしろ積極的に便乗してきたものも多かった。時代の移り変わりとともに、歪が明らかになり、亀裂が大きくなるのも当然ではなかったか。

 組織の役員の人々と相談の上、二月八日に開かれた水産政策審議会の資源管理分科会で第五種共同漁業権の改訂の検討を提案させていただいた。 これまで「増殖義務」だけに支えられてきた漁業権に「維持管理」という部分を付け加えるという内容だ。 漁業法の改訂だから、あまり大幅な文言の改訂は無理だと思ったし、「維持管理」というわずか四文字の中には「さまざまな思い」を盛り込んだつもりである。

早速、多くの方々から連絡をいただいた。私の交友範囲だから比較的年齢の高い人々からの電話が多かったのだけれど、ほとんどの人が改訂に賛成ながら「維持管理」の中身となると千差万別、裏に込めた真意は何かなどと問い詰めた揚句、思うような答えが返らないと怒り出す人さえもあらわれた。それだけ真剣なのだと思うことにした。

もちろん私なりのあるべき姿は存在する。しかしそれは私個人が考えているだけのもの、今の立場で軽々に口にすべきものではあるまい。

 それよりも “万機公論に決すべし”である。 釣り人、漁業組合員、研究者など、淡水の魚に愛着を持つすべての人々に、いまだからこそ、あらゆる場面を考えて提案してほしいと思っているのである。それぞれの“意向”は推測がつく。でも、いま必要なのは、具体的にどうするかという、実際に可能な案なのだ。バス問題ばかりではなく、渓流、清流、止水域、管理釣り場など、あらゆる場所で、釣りがどうあるべきかという未来の姿を思い描き、その目標に向けて進む具体策を論じ合い、五十年余りの年月で膠着してしまった“淡水の魚と釣り”をどんな風にして生き延びさせるかの方法を考えることが必要ではなかろうか。

改訂案はわずかに「四文字」である。それも成就するかどうかわからないのだが、本当の課題はそのあとの運用にあるはずだ。同床異夢のまま改訂を迎えれば、それは過去の繰り返しにすぎないことになってしまう。そんなことを次の世代に申し送るわけにはいくまい。いま、わたしたちのなすべきは、まず、話し合いの機会を作ること、そして、背景や思惑を離れてやわらかなこころで、それぞれの主張を理解しようと努めること。「ささやかに釣りという遊びを楽しませてもらってきた」一人として、いま出来ることの一歩を踏み出そうというわけだ。


四文字の改訂でどんなことが可能なのか、また、どんな危惧を臓しているのか。すべてをオープンにして議論することが、利害得失だけに流されずに済む唯一の方法ではなかろうか。
それにしても、このところ自説をもって絶対的正義だと主張する人々に出会い過ぎた。「いま自分が正しいと主張していることが、時代を経過したあとでも、本当に正しいといえるのかどうかを、心の中に問い掛けた後で口にしているのだろうか、あるいは内心忸怩たる思いを秘めたまま、立場の上で止むなくのことなのか、自己分析は済んでいるのだろうか… 」 論争が続くあいだ、一方で覚めた思いが続いていた。それでいながら、いつの間にか巻き込まれてしまっている自分に気がついては、とても悲しくなった日々であった。本音だけいわせてもらえるなら、とてものことに、争いごとには耐えかねる、こころ弱い存在でしかないのだ。
だから、改訂の提案は「そろそろみんなで悪意と憎しみから抜け出しませんか」という意思表示でもあると受け止めていただきたいのである。

(2005年2月15日)



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