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水辺の賢者たち-4-
金森 直治
←江戸前のハゼ釣り
(昭和30年ごろ)
「釣狂五十年」は数学のセンセイ
松岡文翁(まつおかぶんのう・1860〜1941)は本名・文太郎。石川県大聖寺の生まれで若くして上京し、数学教師として一生を送った人である。
大変な釣り好きで、晩年「文翁」と号したが、いうまでもなく「釣れますかなどと文王そばへ寄り」という川柳の太公望の故事をもじったものである。
この人が不思議なことに数学のセンセイなのに文章を書くことが大好き。数々の名言や独特の随筆を残した。
「一仙六俗」もその一つである。
「そもそも私の釣り道楽は一仙六俗を主義とする。清流に臨んでは、一竿のほかはすべてを忘れ、家庭に帰っては獲物を囲んでだんらんし、仕事に精を出す。これ一週一日は仙人となり、六日は俗人となるという意味である」
本業を大切に!とは結構な心掛けだがそのかわり、いったん決めたからにはと、雨が降ろうが風が吹こうが日曜・祭日には断固として出掛けたといわれ、こんなエピソードも。
…雪の夕方、ある人が川のほとりを通りかかると、雪ダルマが突然ぐらりと立ち上がった。じっと竿をかまえていた文翁であった。
大正6年(1917)10月12日は日本の釣りの歴史の中で重要な日である。
この日、文翁は「つり」を創刊した。
しっかりした表紙もないわずか8ページのささやかな印刷物だが、「雑誌とは定期的に編集し刊行する出版物」という定義に従えば、まぎれもなく我が国最初の釣り雑誌である。
この「つり」は通しページになっていて、綴じていくと一冊の手引書になるよう工夫されている。文翁は第12号(大正7年12月)で次のように語っている。
「……東京市には年々工場がふえ、遠慮会釈もなく毒水を吐き出すから、大川名物の白魚がいの一番に絶え、それから向島土手下の手長エビ釣り、言問団子裏のセイゴ釣り、蔵前裏の鮒釣りタナゴ釣り、中洲のハゼ釣り、永代橋下のカイヅ釣り、などすべて形なしになってしまった」
かの石井研堂の警告から十数年。これは東京の自然破壊に対する釣り人による告発の第1号である。そして文翁は「そのかわり交通機関が発達するから、遠方まで魚を追って出掛けよというのだろう」と皮肉っている。
昭和11年(1936)文翁は著書の中に最も重い言葉を残したのである。
「清流を ドブ川にするような文化は インチキ文化だ」
「日本人はえらいと 西洋人はほめる ドブ川平気で舟を漕ぐ」
この痛烈な言葉も、軍靴の音がひびき富国強兵に狂奔していたこの国ではむなしいものであった。特高の目の光る暗黒の軍国主義時代、これだけのことを云ってのけた釣り師は文翁をおいてほかにはない。
錦亭鳴虫・石井研堂・永田青嵐・松岡文翁みんな日本の釣りをこよなく愛し、確かな眼で日本の自然を見つめた人たちだった。
明治大正そして昭和。
自然を畏敬(いけい)する為政者が、この国に現れなかったことを悲しく思わざるを得ない。
師ゆづりの 竿の触れたる 花いばら 直治