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“赤いリリー”と
   『Thank you Mercuro』
     佐々木 一男   

 4月、わが家の狭い庭の片隅でスズランが咲いた。あの白く清楚で、うつむいた花姿は胸を病む乙女に似ると言った歌人がいた。

 小学校ではリリー摘みをやり、内地へ移った同級生や転任した教師へ送ったりするし、家でも母や姉たちが東京の親戚や知人に送る。浅草ノリの空缶につめ蓋に釘で通気孔をあける。それが毎年の行事で、送られた人は翌年用に缶入りの浅草ノリを礼に送ってきたものだった。

 私の生まれ故郷は北海道渡島半島の西海岸、狩場山麓が日本海に落ち込む岬の漁村、『天気がよいとロシアが見える』と若い叔父が言ったことがある。11月から翌年3月までは西風が強く吹いて海が荒れ、空も海も重苦しい鉛色である。春は西風がやむと訪れる。代って山背風(やませ)(北東風)が吹き、マス(アメマスやサクラマス)が河口周辺に近づき、ニシンが接岸する。私が生まれた大正末期には、こうした生活資源は減少し寒々とした漁村の姿になった。噂ばなしの『ロシアがカラフトの間宮海峡の狭部を埋めて沿海州とつなげたから海流が変った』を信じる向きもあったという。大人たちは秋からサケ漁に出稼ぎ、千島やカラフトまで行く。正月に帰るが3月になるとニシン漁、ニシンの北上に合わせて留萌や苫前へと行く。だから老人と子供だけの生活が1年の大半だった。私の家の場合は、まだ50代の祖母が親戚の子を数人同居させて親代りだった。

 海から吹きつける風が海水を氷滴にして激しく戸を打つ冬の夜、囲炉裏を囲んだ子供たちは、祖母にむかし話をせがむのが毎夜の楽しみだった。祖母は囲炉裏の灰に餅を埋め、スルメやタコの足を焼きながら、面白おかしく、ときに涙しながら語る。赤いリリーは、炉辺での祖母の語りであるが、私のフィックションも・・・・。

 狩場山は休火山。主峰は1520m、五座からなる山塊である。アイヌは“神の山”として崇め、頂上に登ることを禁じていた。北海道へ逃げた源義経や弁慶たちが、この山に隠れ住もうとして登ったため、神の怒りで命を落としたという伝説があるそうだ。海ぎわの断崖上に小屋があって寄ってくるニシンを見張る。雪深い3月に巣穴から出た羆(ひぐま)が小屋を襲って、何人も死に、片輪者になった。その崖上の丘に、雪の溶けた5月なかごろリリーが咲き乱れる。

「そこによ白っけいリリーでなく赤っけいリリーが咲く一画があるんだ。花かっこうも、においも同じだが、なぜ赤っけいなんだべ?」

 囲炉裏の煙にむせびながらも眼を輝かせ、鼻水をすすり上げ、背を丸めて頭をつき出して耳をすませ、祖母の話の続きを待つ。

「むかし、むかしのことだぞ。おめいらのトッチャもカッチャも生れてねえ、ずーとむかしの話だ。」

 祖母は焼きあがった餅を両手で挟み、ポンポンと叩いてから口先をしぼめて息を吹きつけて灰を落とす。小皿の醤油を少しつけ、砂糖を指先でつまんでふりつける。タコの足やスルメは囲炉裏の太い木枠に叩きつけて身をほぐしてくれる。それから長い火箸で灰をかきまぜ
燠(おき)を集める。鉄瓶の蓋をとって湯気を散らし、水を差す。子供たちにとっては祖母の仕草は余計なことなのだが、祖母は話を小出しにして子供たちの眠気を誘うのである。片手に餅、片手にタコの足、口に運ぶのを忘れて、深く息を吸い込む。

かし、このあたりにはアイヌがいっぱいいての、義経さまも鬼の弁慶も負けたくらい強いアイヌだった。ニドイモ畑の奥に石垣があったべ、あそこがアイヌの殿様の屋敷跡だ」

 平和なアイヌたちの生活をおびやかすのは羆でもオオカミでもなく和人(わじん)だった。和人は松前や江差を本拠地にし、瀬棚でアイヌ軍を破るが、狩場山西麓海岸でアイヌ軍に数度も破れた。いつか、和人の若い侍が一人捕虜になった。何年かたち、その和人はアイヌのメノコ(アイヌ娘)とよい仲になるが、酋長は二人を夫婦にしてくれない。雪が降った初冬のある日、來世で夫婦になろうと丘の上で刺し違い心中をしてしまった。

「かわいそうになァ・・・・・・めんこいメノコだったのによ」

 祖母は、まるで見ていたかのように実感を込めて語り、瞼に手をやり、涙をぬぐうように袖で顔をおう。そして、子供たちの顔色をうかがう。まだ眠気はない。目玉が光っている。

「リリーの話っこだったけ・・・・。リリーが咲くのはニシンが終ってマスが川にのぼってからだべ。ニドイモの種イモを植えつけにみんなで畑へ行くと、リリーの匂いがいっぱいだ。あの花は匂うけれど蜜をつけないのか虫がつかねえ、根っこに毒があって薬になる。その和人とメノコが心中したところのリリーだけが花が赤いんだ。二人の血が土に浸み込んでリリーの根に吸われたから、花が血の色なんだ。うん・・・・真っ赤じゃねえ、少し赤い。アイヌたちは、この赤いリリーを大事にした。おらたちも採らなかった」

 話が終わるころ、子供たちの大半は眠っていたが、私は終りまで聞いていたそうだ。きっと幼い胸に熱い感傷があふれていたに違いない。瞼に涙をためて、冷えた餅がそのまま握られていたそうだ。

 庭でスズランを摘んだ私は薬箱からマーキュロ(赤チン)をとり出して花瓶に数滴おとした。わずかな時間で鈴型の花が薄赤くなってきた。傍にいた末娘が、私のやったことを粋だという。それで、幼児のころ祖母から聞かされていまも覚えている“赤いリリー”のはなしをしてやった。きっと娘は私がやったと同じことをやるだろうし、将来、自分の子に赤いリリーの花を語り継ぐだろうと思う。

 1999年8月、アラスカのコディアック島のアメリカン・リバーで46cmのドリーバーデン(オショロコマ)を釣った折、帰途に、遡上しているレッド・サーモンの産卵を見にカルスン・ベイに流れ込むオールズ・リバー下流域に広がる湿原に寄った。レッドは水草や藻のある浅い止水で雌雄がデモンストレーション中である。それをグリズリー(羆)が追いまわす。私は左岸の低い丘の中腹で遠目に蘭に似た白い花を見つけ、一茎を摘んで水ごけで包みホテルに持ち帰った。あと3泊するから、殺風景な部屋の窓べりにガラス・コップで飾った。

 翌日はキング・サーモンとシルバー・サーモンの船釣りに終始し、夕刻前にホテルに帰ったら、コップに生けていた小花が薄赤い。コップの水も赤い。部屋の掃除をするメードさんが、赤いナニカを入れたらしい。夕食の折にフロントで尋ねたら、アラスカ西部に住むアリュト(原住民)のなかに、白い花を嫌うのか、赤い花を好むのか、いずれかの習慣があるそうだ。メードが消毒用のマーキュロを入れたのだろうという。私は嬉しくなってしまった。英語が堪能なら、日本の北海道でスズランの白い花を赤く染める風習があること。私の故郷の丘に赤い花を咲かせるスズランがあって、悲恋の伝説があることなどを話してやれるのにと思った。アイヌとアリュトはともに北方民族、共通したナニカがあるモンゴロイドである。もしかしたら、アリュトに“赤いリリー”のようなむかし話があるかもしれない・・。

 翌朝、その花を飾った窓べりに1ドル紙幣を5枚置いた。そしてメモに『Thank you Mercuro』と書いた。メードさんは、なんでサンキューなのか、わからないかもしれない。でも、それでいいんだ。ささやかな私の望郷のお礼だから―。


                       ※この稿は古いものに加筆した。

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